「熱い心でクールな仕事を」がモットーの
メディカル翻訳者の日々の暮らし
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祭りの始まり

(今日のムフフ)

なになに?Jrに聞いた憧れる先輩の第1位がR様って?そりゃそうでしょ。男でも惚れるわ。

昨日入手したベスト盤のミュージッククリップがヤバイ。

長女が言っていたのだけど、「10秒見つめられる相手じゃないと結婚できない」らしい。

両方の意味があると思うのだけど、そうね、とてもとても10秒なんて見つめていられない。

昨日観たDVDも、最初の1時間は凝視できたけど、1時間過ぎた頃から眩しすぎてもう見つめていられない。

DVDでこれなんだから、リアルなら1秒も無理かもね。

 

今度のMステ。『Your Seed』が楽しみすぎる!

来月のライブに向けて、お祭りの始まりです!

 

やっぱ好きやねん

『エッセンシャル思考』を読んで(聴いて)(→)、仕事を安易に引き受けないようにしようと再度心に誓った私。

それなのに、昨日の夕方打診された案件を引き受けたのはなぜ?

断れる状況にあったし、何よりもう1ヶ月先まで仕事のスケジュールは埋まっているのだから、これ以上入れる必要がないといえばない。

「夏は休む」なんて言っていた舌の根も乾かぬうちにこれですよ。

なぜなんだろう、と考えました。もちろん『エッセンシャル思考』から学んだことを思い出しながらですよ。

少しでも稼ぎたいという貧乏性か?何か他のことから逃げるために自分を忙しくしようとしているのか?ありとあらゆることを考えました。ほら、『エッセンシャル思考』で言っていたじゃない、何かを入れればその分何かが入らなくなるんだよ。貴重な時間がそれに取られるんだよ?他のことができなくなるんだよ?と自分に言い聞かせました。

そして、出てきた結論は、

結局、仕事こそがしたいことなんだ

ということ。

 

わお、またそれ?

今までも何度もそれは自覚していたけど、今までとはまた意味合いが違うような。

駆け出し時代はキャリアを積むためにとにかくたくさん仕事したかった。仕事していること自体が新鮮で、やりたくてたまらなかった。もちろんお金も欲しかった。

でもね、今はちょっとそれとは違う。

やっぱりこの仕事そのものが好きなんだ。ただそれだけ。

打診された案件ファイルに目を通したとき、「ああ、訳したいな」と思ってしまった。

内容や形式によってはやりたくないものもあるけど、そういうときはバンバン断っています。今回は「おお、やろうかな」と思えた。

まるで、新しいパズルを渡されたみたいに。

楽しみ半分、いやほぼ楽しみ。

ちょっと理解できないかもしれないけど。

 

人生で一番勉強したのは中学校のときでした。部活もやっていたのだけど、合宿中に後輩がちょっとした悪さ(といっても持ってきた飴を食べただけなんだけど)をして顧問の先生から部長としての責任を問われ、結局その部をやめたのです。2年の秋だったなあ。まあそれまでは部活をやっていたからそれほど勉強していなかったのだけど、することがなくなって勉強し始めた。そしたらハマってしまって止まらなくなりました。なんせ負けず嫌いな性格。部活の方は市の大会で優勝するくらいは行っていたけど、どうもそれ以上は行けなさそうな感じでしたが、勉強(テストの順位)ならどんどん上を目指せそうでした。好きと得意が一致したのですね。そういうときは結果(例えばテストの順位)よりも過程そのものが楽しくてたまらなくなって、結果は後からついてくることが多いです。そういう自分の得意分野(まあたいしたことはありませんが)の作業(つまり机でやる勉強)は、もうそれ自体が楽しい。当時からそういう感覚を持っていました。

あるとき、同級生から「なんでそんなに勉強するの?」と尋ねられました。そのとき「う〜ん、好きだから」と言ったら案の定、「人間ではないわ、この人は」みたいな目で見られました。ほんと、私にしたらゲームにはまったりしていることと変わらないんだけどね。まあ、なかなか理解されませんよね。

 

今、またそんな感じなんです。仕事がおもしろい。もうそれ以上でもそれ以下でもないのです。なんの言い訳もしません。単に好きだからやってます。これが私にとっては、大好きな時間の使い方なんです。

はっきり言って、それ以外は何もなくてもほぼOK。他の用事はできれば全部やりたくない。そしてこれ以外の楽しみもこれを超えるものはほとんどない。なんだか悲しい生き方と思われるかもしれないけど。自分自身も、ワークライフバランスはどうなっているの?とかいろいろ考えるけど。もう好きなんだからしょうがないよ。認めちゃいましょう。その上で、他のことも考えていきましょう。

 

 

今日は夫もまだ出張から帰ってこないし(学会シーズンは出張が特に多いですね)、子どもたちも忙しいから思う存分仕事できるわ〜!でも、土日はちょっと気分が緩むので、こうやって朝からブログを書いたりもできます。BGMはこれ(→)。

師匠に「PCでもBluetoothを使いたい」と相談したら「できるはず」と教えてもらって、今はこれ(→)を使っています。

これで、PCからBOSEに飛ばすことができるようになりました。超快適です。テープ起こし案件のときにも役立つしね。

 

音楽でリラックスした後は、頭の体操(仕事のこと)といきますか。今日もクリアな頭でいい訳を作れますように。

 

 

 

小さく小さく

6月ももうすぐ終わり。つまり1年の半分がもう終わります。

子どもがいると、どうしても学年の始まり(つまり4月)を1年の始まりとして見てしまうところはありますが、仕事の収入は1月から12月までを1年として管理しています。

 

半年で区切って、仕事の収入面を振り返ってみると、今年の目標の半分までは達成できているので、今のところいい感じですね。

労働時間は1ヵ月に20日働くとして1日5時間弱。まあ、こんなもんでしょう。

年収は仕事再開後の数年間は100万円単位で毎年上げていったけど、さすがに頭打ちで最近では50万円単位でのアップを目指しています。今年は目標が達成できそうな感じです。

 

理想は高く持ち、目標は低く設定することが大事だと聞きました。夢ばかり膨らんでいると、結局「地道な第一歩を踏み出す」という努力を怠るのですね。例えば、部屋をキレイにしたいと思っているけど、理想と現実との間にあまりに差がある場合、目の前にあるゴミさえ拾う気力がないとか。運動するぞと意気込んで、毎日走ろう、なんて思っていても三日坊主で終わってしまったり。オール・オア・ナッシング思考だと、結局何も変わらない。単に努力しない自分への言い訳が増えるだけなのです。

言い訳って実は言い訳じゃないことがよくあります。

例えば、○○だから△△できない、という言い訳。では、○○でなかったら△△できるのか?自問すると恐ろしい答えが待っています。実は○○でなかっても△△できない自分がいたりするのです。

「忙しいからあれができない」→じゃあ、忙しくなかったら(忙しくない時間があれば)できるの?

「子ども(その他誰でも)がいるから今は無理」→じゃあ、その人がいなくなったら本当にやるの?

「お金がないからできない」→お金さえあれば本当にやる?

 

恐ろしいです。すべてが「どっちにしてもやりたくない」という自分への言い訳にしかなっていないことがあるのです。

だから変えてみましょう。

「○○だけど、□□くらいはやってみよう」に。

そのうち□□が△△まで行く可能性だってありますよ。

でも今は△△を見ないで□□をできるだけ低いレベルに設定するのがコツ。

先ほどの年収の例では、100万円単位で上げていくのは難しそう、では50万円アップを目標に置いてみよう。1年でなく、ここ数年くらいで達成できればOK。みたいな感じで。

 

小さいことを目標に設定して、とにかくやってみるのが大切。

例えば年収アップなら、コツコツと取引先を新規開拓したり、仕事のやり方を変えてみたり、道具を揃えてみたり、と改良を加えていくのです。一気に変わらなくても、そういう地道な努力が変化につながるのですね。

部屋の片付けなら、「ここだけはやってみよう」という感じで、キレイにする。決して大きいところは見ない。それがコツ。

 

一番大切なのは「本当に本当にできないの?」と自分に問いかけてみることですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

女子力向上

(今日のムフフ)

なに、今度は「J's女子力選手権」?いやこれも、カフェが大好き、お肌ピカピカのR様で決まりでしょ。得意料理が金目鯛の煮付けって、どうよ?スーパーで金目鯛を見るたびに私も煮付けくらい、と思うのだけど、つい切り身や刺し身を買って楽してしまうのですよねぇ。朝、部屋に掃除機をかけて、出かける前に、メンバーからプレゼントされたルンバを仕掛けておくってどんだけキレイ好き?ほんと見習わねば。その女子力わけて〜!とVanilla Iceをスプーンですくいながら願う私でした。

 

ああ、仕事にかまけて女子力を低下させていては、R様のファンではいられない。よし、女子力向上させるぞ〜!

(「女子力」って言葉に対するあーだこーだは今は置いておきましょう)

 

 

 

La Vie en rose

(今日のムフフ)

「きっといいことあるね」って、もうこのCM自体が幸せ運んでくれてますよ!なんてバラが似合うんでしょう。

よし、早速今使っているノンシリコンシャンプーからこれに変えましょう、と近所のドラッグストアに買いにいったのにまだ売っていないじゃない。まあいいわ。半年後の映画の公開日も決まったし、3ヵ月後には別の映画も。あとはツアーチケットを当てるぞ〜!

あ〜あ、あと30歳若かったらなあ、私は大好きな村上春樹氏が在籍していた憧れのW大学で、「J`s同好会(だったかな?)」に入って、仲間と一緒にダンス踊るのに。そんなところにR様がサプライズでやってくるなんて、もう私がそこにいたら卒倒してるわ。

 

 

デスデモーナ、きれいに咲いています。ますますバラ、がんばるぞ!

流れの中で受け止める

父と二人暮らしの母は、父が出かける時は時間を持て余すのかして、よくランチに誘ってきます。

昨日も父がゴルフに出かけたので「忘年会ランチでもしよう」と誘われ、琵琶湖のほとりのミア アルベルゴで今年の慰労会(?)をしました。

 

 

地元の野菜を使ったお料理を堪能。

車で行ったので、残念ながら私は飲めませんでしたが、母はスパークリングワインを楽しんでいました。



 

子どもが成長すると、それに応じてその年頃の自分を思い出すものですね。そして、ジェネレーションギャップや置かれた環境の違いに(もちろん性格の違いにも)思いを馳せるのです。

 

子どもの小学校時代にお世話になった先生から言われた言葉。「親ができること、それは自分がしてもらってうれしかったことは子どもにしてやり、嫌だったことはしないようにすること」。心がけてはいても、難しい場合もありますね。その先生の場合も、自分は親が共働きで忙しくて寂しかったから、子どもにそういう思いはさせたくなかったのに、実際には奥様も先生なので完全に共働きで、結局同じ状況だと言われていました。

 

私もできるだけそのことを心がけてきたつもりです。ただ、自分が親にしてもらったことはわりと当たり前みたいな感じで忘れているのに、してもらえなかったことは覚えているものですね。そしてどうしてもそちらに重点を置いてしまったりして。私の場合は、母が専業主婦で、家族が心地よく暮らせるようにしてくれていたことには感謝なのですが、父が私が大学に行くのに反対したりして、経済面で苦労(と言っていいのかどうかはわかりませんが)したことは、自分の子どもに同じ思いをさせたくないと思ったことです。まず父は「女が大学なんか行ってなんになるんだ」という考え方。私学の滑り止め受験も無理な状況だったので、国立一本と滑り止めに別日程の公立大学を受験。絶対に受かりたかったから、共通一次試験(年齢がわかりますね(笑))で、過去にその点数以上を取った人は全員合格しているという点数を目標にして試験に臨みました。1000点満点で850点以上を目指していて、実際の点数は853点。これなら受かる、とある程度の自信を持って二次試験に臨み、何とか滑り込みました。

受験勉強の仕方は、塾や予備校なんて行けないから、母に頼んで父に内緒で予備校と同じ内容の教材(数十万円はしたと思います)を買ってもらい、自宅で勉強。その教材の元は取ったと思っています。

さて、大学は家から通えるところで、と思って選んだのですが、同じ府内でも南部から北部への通学は片道2時間はかかり、ヘトヘトでした。3回生になると、午前中は講義、午後は実習(実験)となり、終電に間に合わなくなることもしばしば。どうしても下宿しなければやっていけなくなったので、また親に頭を下げて下宿をしぶしぶ許可してもらいました。ただし、その下宿先は父親が勤めていた会社の独身寮。築ウン十年の木造2階建てでトイレやお風呂は共同。家賃は月1万円くらいだったかなあ。毎月家賃込みで3万円を親からもらって生活していました。

その寮でしばらくがんばっていましたが、部屋にトカゲは出るわ、古くて床が傾いているわ、夜はネズミが天井を走り回る音で眠れないわで、2年くらい経過した時点でもう限界と思って、引っ越しを検討。家賃月3万円の、ほんとに狭いけど新築のワンルームマンションに移ったのです。その頃はすでに大学院に進学していて、大学院への進学だけでも父に反対されたのに、これ以上親に負担はかけられず、仕送りは月3万円のまま。家庭教師のアルバイトで残りの生活費をカバーしました。

 

なんだか大げさに苦労(?)話をしてしまいましたが、昨日なつかしく思い出したことはそういう自分の苦労(と言っていいのか)ではなく、学生時代のアルバイトのこと。母のつてで、大学時代の6年間、実家近くのお宅で家庭教師をしていたのですが、そこが地元の名士のお宅でお金持ちだったから、おいしい思いをいっぱいさせてもらいました。まず、お父さんが車で送迎してくれます。そして勉強を始めて1時間たったらおやつにケーキなどが出され、計2時間で終了。親御さんは「がっついて」いなくて、「家庭教師の先生に勉強を見てもらっている」という状況に安心されており、成績アップのプレッシャーなどは皆無。毎週2時間勉強を教えて、月2万円のお月謝。お歳暮シーズンには金のネックレスなどのアクセサリーをもらったり、帰り道にお土産(たこ焼き)を買ってもらったりもしました。最初の生徒さんが無事に私学の付属高校に進学した後は、その妹さんを教えたり、隣に住んでいる親戚のお嬢さんを教えたりして、ず〜っとお世話になっていました。下宿の近くでも家庭教師のアルバイトをしていましたが、そちらでも大変よくしていただきました。そういう「楽して稼げる」状況にあったから、私も人並みに大学生活を楽しむことができたのです。派手なことは無理だったけど、車の免許も取ったし、スキーや旅行にも行きました。なにより、あの大学で6年間過ごしたことが、今の自分の基盤になっていますし。

 

お金は上から下に流れていくんだなと感じました。私には勉強ができるという長所(たいしたことはありませんが)しかなかったけど、その長所を活かし、お金がたっぷりある人たちからお金を流してもらった。それを受け取っているとき、自分まで豊かな気持ちでした。

昨日、母から知り合いの娘さんの話を聞いたのですが、その娘さんは私がここ数年メインでやっている仕事のソースクライアントである某製薬会社にお勤めだそうで、例の新薬に少しばかり関わっていたという理由で、産休中なのにボーナスをもらったとのことでした。そりゃあそうだよね、と思いながら、そのお金の流れは私にも来ている、と感じました。その製薬会社は潤っているから、翻訳の外注も多いのでしょう。そして私の仕事も多くなるのです。ああ、ありがたい。どんどんそれを受け取らせていただこうと思います。

 

自分自身にはもともと何もなくても、スキルを上げ、チャンスをつかむと、流れの中に入っていけるのですね。そして周りにいる素晴らしい先生や先輩、仲間の力も借りながらどんどん自分を高めていったらよいのだと思うのです。そして、できることなら、私もいつかは誰かのお役にたちたい。流れを止めず、自分も流していきたい、そう感じました。

 

 

 

 

 

どうでもいいけど

今日のどうでもいいつぶやき

 

ひどいわ、役作りのためにちゃんと黒くしてから監督に会いにいったら「変わっていく役だから最初はチャラくして」と言われたので「またわざわざ」染め直したというのに。。。A紙のライターにあんな風に言われるなんて。。。

 

だいたい、批判する人とか人の悪口を言う人って内実を何も知らないでわかったようなことを言って自分が上にたった気になっているけど、その心ない一言にどんなに傷つけられている人がいるか。。。そういう想像力には欠けている。

 

楽しめている人、仲良くやっている人を妬んでいるふうにしか見えないねって、本当はみんな思っているんだよ。優しいから言わないだけでね。

 

 

 

 

 

 

ガツンときたフレーズ

目に映るすべてが

 

嫌いで

 

それ以上に

 

自分が嫌いで

 

 

CMから耳に飛び込んできたこのフレーズ。

ああでも、そう言っている(CMのなかの)高校生はまだいいよ。

 

「目に映るすべてが嫌い」で終わっている大人がいるから。

「それ以上に自分が嫌い」なんて自覚はない。いや、自覚したら生きていくのがつらすぎるんだね。

 

逆にしてみようよ。

 

自分が好き

 

そして周りも好き

 

に。

 

許してあげよう、まず自分を。十分にがんばってきたじゃない。がんばっているじゃない。

不器用だけど、本当は悪魔の心なんかない。ただただ悲しかっただけ。寂しかっただけ。苦しかっただけ。

そんな自分を許そうよ。

 

自分を好きになったら、周りのことも好きになるから。

 

 

 

 

 

 

「ケ」でも幸せ

用事で近くまで行くから、と立ち寄ってくれたお友だちとうちでお茶しました。ちょうど夫が昨日東京で買ってきた満願堂のきんつばがあったので、お茶うけにして。

 

「久しぶりだよね」と言われたけど全然そんな感じがしなかったんです。でも実はこないだ一緒にランチに行ってから1ヵ月はたっていたみたいで、「月日がたつのは早いよね」なんて話していました。

 

10月は一体なにをしていたのだろう、と振り返ると、仕事がらみのセミナー以外、特筆すべきことは何もなく。

 

それって悲しいことなのかな?

退屈な日常の連続なんて意味がない、めちゃくちゃ楽しい体験や思い出に残ることがない生活なんて生きているって言えない、なんて意見がありますよね。

でも本当にそうなのかな?

 

私にしてみれば毎日好きな仕事をやって、家のこともできるだけ整えて、満足できる夕食を作ってという生活こそが、生きている実感なんだけどなあ。つまりどこにも出かけなくても、びっくりするような外食をしなくても、日々の生活だけで満足できている。

「ハレとケ」の「ハレ」だけを追求して「ケ」がおろそかになったら、「ケ」の時間は「ハレ」を待っているだけの時間、あるいは「ハレ」の思い出にひたるだけの時間になってしまうかもしれない。

「ハレ」はもちろん大切だけど、本当に大切にしたいのは「ケ」の部分なのですよね。

 

1日のうちで大半を占める仕事の時間、それをいやいややっていたとしたのなら、その時間は大げさに言えば死んでいるに近いと思うのです。ああ、早く終わってあれしたい、ああもうやりたくない、できるだけ短時間にしたい、と。

そういう時間の使い方だと、いくら「ハレ」があったって、「ケ」の部分の退屈さを「ハレ」が凌ぐことはないような気がします。

もともと西洋には労働を懲罰だととらえる風習があり、労働問題を論じる場合に懲罰から逃れることだけを考えているところがありますが、農耕民族の日本人はそれとはちょっと違うのですよね。直接収入を得る仕事だけではなく「はたらく」ということを尊いものととらえている。神様に使える作業だと。

 

だから最近の私は翻訳の仕事も家族のための家事もわりと同じテンションでやるようにしていて、自分が納得できるようにある程度手間暇かけています。そのほうがやっている時間が楽しいから。逃れようとはしていないんです。まあつい最近まで家事労働から逃れようとしていましたが、それは無理だし、なんとなく自然ではない気がして。

とにかく起きている間のすべての作業は「ケ」なんだけど、とっても心を込めていて、自分なりに工夫しているので、それをやっているだけでわりと楽しいのですよね。

 

人に自慢して話せるようなトピックは何もないかもしれないけど、毎日の一瞬一瞬が「好き」って感じなのです。快適な環境でサクサク仕事し、自分が納得できるようじっくり取り組む。家のことも完璧ではないにしろ、できるだけ自分が「好き」って思えるようにいろんなことを整える。

そういう毎日があえて言うとしたら「幸せ」なんだなあ。

 

まあ一番大きいのは「好きなことを仕事にした」ということですね。これさえクリアできていれば、「ハレ」がなくても日々満足できますね。

「くっつく」なんてもう言えない

蜷川実花さん、ありがとう!あんなに素敵に撮ってくれるなんて。

「一番を目指す」なんて言葉は確かに、自信も野心も内に秘めることが「美徳」とされるこの国では言えないですよね。

「悔しかった」「一番にならないと意味がない」「許せない」「必死」などの言葉が出るのは、本当に努力してきたからだと思います。そういうところが一番の魅力。自分もがんばろうと思えるから。

 

学生時代に私のことを「がんばりちゃん、って呼んでるねん」と言ってきた仲間。どう考えてもいい意味には取れなかったけど、もうそんなのは慣れっこだったから、気にしなかった。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」をいつもいつも母から言い聞かされ、「出る杭は打たれる」は身をもって体験した(人生の途中からは開き直って、「出過ぎる杭は打たれない」を座右の銘としていますが)。

でもね、学生時代のその仲間、今は周りから「がんばりすぎって言われてるねん」と年賀状で報告してくれた。

そうじゃん、みんな実はそうでしょ。でもそれを出すのが恥ずかしいんだよね、この国だと。特に、がんばっているのを見せて、結果が出なかったら恥ずかしいんだね。それだったら「私はがんばっていません、適当にやっているだけなんです。で、こんな結果ですけど全然気にしてません」てな態度を取っているほうがプライドが許せるのかな。

 

 

話は変わりますが、今年のノーベル生理学・医学賞は、本庶先生が取るかなあと思っていました。新聞や雑誌(上述の雑誌にも載っていましたねえ)にまで取り上げられるようになったあの薬。今、仕事の半分以上がそれがらみ。がん領域ではその薬剤以外の抗体薬も花盛りで、私の抱えている3件もすべてそれ。細胞生理学を専攻していた身としては、作用機序がおもしろくて仕方がない。ああ、やっとここまで来たのかあと技術の進歩に思いを馳せて。

そうそう、その本庶先生の研究が少し前に新聞の科学欄で紹介されていたのですが、読んでびっくりしてしまいました。それは、AとBが「くっつく」という表現。確か抗原と抗体が結合するということだったと思うのですが、一般向けには「くっつく」と表現するのですね。もう自分の引出しからなくなってしまっている表現です。つまり、「くっつく」なんて言葉、もう書けない。「結合する」としかね。これはある意味職業病ですね。夫にその記事を見せて感想を述べたら「そりゃそうだよ。僕らだってPMDA(役所)に出す書類と患者さん向け文書とでは表現を使い分けていて、患者さんには「治る」なんて言葉も使う場合があるし」と言っていました。そこが難しいところで、私の仕事でも、一般向けの文書では平易で一般的な表現を使わなければならないのですよね。別の引出しを用意しておかなければなかなか使い分けは難しい。こないだもお友だちに「許容」なんて言葉を使ってしまった。。。「許してくれるかなと思って」とすぐに言い直しましたが(笑)気分はほぼバイリンガルです。

 

 

「許容」してくれるお友だちからいただいたお菓子とチョコの新製品。秋の夜長にNespressoでカフェインレスコーヒーを淹れて、お菓子とともにホッと一息。

 

 

週末、夫が作ってくれた天丼。こんな夫に「帰りにA○○A買ってきて」、なんて頼む妻はいつまで「許容」してもらえるかしら。