先日ピアノサークルの弾きあいがあり、ラフマニノフの前奏曲「鐘」とスカルラッティのソナタを弾いた。
先生がその頃お忙しくてレッスンが受けられなかったこともあるが、まあ、こんなもんかという演奏だった。
その後、楽しく次の曲選び、そして8月と11月のホールでの発表会用の曲選び。
楽しいはずの作業が苦痛だった。
候補のショパンのスケルツォとベートーヴェンのワルトシュタインを弾いてみるが、どうも速く弾けないのだ。
まずスケールからして短調は120で弾くのが難しい。そんな技術では、スケルツォもワルトシュタインも思ったような雰囲気では弾けない。
「やっぱりこれ以上は無理なのかな。技術はもう上げることは無理なのかな。
私の弾ける速さで、弾ける曲を弾くしかないのかな」
とあきらめ気分が出てきた。
スケルツォをゆっくり弾いてみた。なんだか楽しくない。これならこの曲はやめた方がマシ。
再開して10年のピアノとこれからどう向き合ったらいいのか、悲しい気持ちになっていた。
そんな時、ふとピアノサークルのメンバーが言っていた言葉を思い出した。
「暗譜ができないから、楽譜を見続けるしかない」
なになに、楽譜を見続けるということは、手元は見ないよね。
ということは、もしかしたら私は手元を見すぎている?
ためしにまったく手元を見ずに楽譜を注視しながら弾いてみた。
そして、鍵盤を想像しながら手を一番いい形で動かしてみた。
すると、なんだか動きに集中できてすごくうまくいく。
どんどんスピードも速くなってきた。
どういうことだろう、うまく説明できないが、とにかく身体で覚えるということ。
身体で感じる、ということ。ほんとうまく説明できないが、信じられないくらい速く弾けるようになってきた。そして弾いていて身体が喜ぶのだ。ちょうどスポーツをしているときのように。
ひとしきり好きな曲を弾いた後で、スケールを弾いてみた。
信じられないことに楽々120はいく。どうしたのだろう、私の手。
というか私の身体、というか全身の動きだ。
こないだコンサートを聴いて、「ピアノって運動?」って思ったことも一つのきっかけ。
運動なら頭より身体で覚えることも大事。
そういえばピアノサークルの別のメンバーも言っていた。
「暗譜してからが勝負」
それも、実は同じ意味なのかもしれない。
目に頼らない演奏。頭に頼らない手の動き。
彼女たちが言いたかったこととは違うかもしれないけど、私はそういう理解をすることで、また一つ階段を登れたような気がする。サークルメンバーに感謝。
何度も何度も停滞して、ちょっとだけうまくなる時があって。また長く停滞して。その繰り返しの私のピアノ。
でも、もうこれ以上は無理かも、と思っていたのがもう少しいけそうだ。
なんとうれしいこと。
大人になってから再開したピアノ。自分への挑戦だったが、くじけそうになることもしばしば。
でもたまにこうやってブレイクスルーするとうれしくてやめられない。
私の究極の目標、ちょっとでも技術力を上げていって、いつかどんな曲でも弾けるようにする。
先生に習い始めた10年前は、できると思っていたのだろう。
最近は「やっぱり無理なのかな、この年では(認めたくないが)」と現実の厳しさに空しくなることもあったが、やっぱりあきらめたくない。そう、少しでもいいから上達したい。
大げさかもしれないが、ピアノの上達こそが私が何かをやったと思える唯一実感できることなのだ。
これをあきらめなければ、他のことも同じな気がして。
絶対あきらめたくない、再度決意した。
いつもはピアノのことはHPにアップしていますが、今日はブログに載せてみました。